夜になるまえに

本の話をするところ。

傷と共に生きる「グリフィスの傷」

 すっかり忘れてしまっていた傷があり、今も毎日の暮らしの中でうずいている傷がある。どんな種類のものにしろ、必ず傷はそこにある。

 本書には十の短編が収められているが、各編の主人公は皆、なんらかの傷を負ったことのある人たちだ。彼らは決して、何かをきっかけに前を向いたり、再生したりはしない。そんな安易な救いを、この本は描いてはいない。

 彼らは傷を負ったが、その時は血を流し痛みを覚えたとしても、既に傷は治ってしまったので生活を続けている。しかしその生活の中でふと思い出すのだ。自分に傷跡があることを。その傷を負う前の自分と負った後の自分は、決して同じではないことを。

 その傷は、彼らの命を奪いはしなかった。だから彼らはこれからも、かつて傷を負った自分として生きていく。自分を捨てるわけにはいかない。傷を捨てることはできない。望もうが望むまいが、傷はもう自分の一部、傷跡としてそこにある。生きていれば傷は癒えるが、傷を負ったことは消えない。傷を負うに至るまでの出来事が、なかったことにはならない。痛みの記憶を抱えて、人は生きていく。生きていこう、という前向きな決意を下すのではない。否応なく、傷を負った自分を抱えて、彼らは生きていかねばならないのだ。

 体が、そして心が、生まれてから今まで生きてきて、どれほどの傷を負ってきたかを思う。「グリフィスの傷」とは、ガラスが他の物質と接触してできる微細な傷を指す。ここに収められた物語の主人公たちのような傷をたとえ負っていなくとも、きっと私たちは皆、いくつものグリフィスの傷を負っていて、目に見えないそれらと共に、生きていかねばならない。