朝八時を少し過ぎたころだったろうか。私は京都駅にいた。九時一分発の新幹線に乗るためである。新幹線の中で食べるつもりの朝ごはんをゆっくりみつくろって、それでも時間が余るだろうからちょっと早く出る便に予約を変更しようかな、などと思っていた。
予約を取った新幹線より早い便を検索し、予約を変更しようとした時だった。
あれ? 遅延の表示が出ている。八時二十四分発の新幹線が、五十四分発になる見込み?三十分も遅れるの?
しかももうその便には空席がなく、予約を変更することもできない。電光掲示板を見上げる。もう出発していなくてはならない便がずらりと表示されている。私が乗るべき九時一分発の便はそこにはまだない。三十分遅れどころじゃないんじゃないか。同じように電光掲示板を見上げる人がいる。トイレには見たことがないような長蛇の列ができている。売店のレジにも人が並んでいる。いつも人の多い京都駅だが、さすがにこれは多すぎる。そりゃそうだ。既に出発しているはずの新幹線に乗るはずだった人が大勢たまっているのだから。
九時をまわった。とっくに出発時刻は過ぎていたが、まだ新幹線は動かなかった。とりあえずお茶と朝ごはんのサンドイッチを確保し、こういう時のために持ってきていた文庫本を読みながら、私はあきらめた。
何を? 「オソオセヨ! チョン・セランチャッカニム」に遅れず参加することを。『フィフティ・ピープル』などの作者であるチョン・セランの出演するイベントだ。このイベントと共にスタートするK-Bookフェスティバルに参加するために、私は東京に向かおうとしていたのだった。
結局、新幹線は一時間四十分ほど遅れて出発した。やっと座ることができてほっとした。ああ、チョン・セラン……本当なら十一時十五分には東京駅に着き、イベントの始まる十二時には悠々会場である神保町の出版クラブビルにいるはずだった。しかしこの分だと東京に着くころにはイベントはもう終わりかけていて、出版クラブビルに着くころにはもう終わっているだろう。うん、完璧に手遅れであって、この状況を改善するためにできることはない。あきらめがつくと心が穏やかになった。
ちなみにこれが私が現地で見ることができなかった「オソオセヨ! チョン・セランチャッカニム」である。K-Bookフェスティバルの素晴らしいところは、こういうイベントに無料で参加できて、なおかつイベント終了後に動画をインターネット上で公開し、誰でも見られるようにしているところだ。
さて、「オソオセヨ! チョン・セランチャッカニム」を生で見ることはかなわなかったものの、新幹線はその後滞りなく進み、何事もなく東京に到着した。いつものように多少迷いながらも間違わず電車に乗り、神保町に着く。キャリーバッグを抱えているので難儀しながら階段をのぼり、地上へ。そして出版クラブビルへ。
初めて来る場所だ。入り口を入るとエスカレーターがあり、上ったところには何やらテーマごとに並んだ本の展示がある。そしてそのスペースに出版社や韓国の書店のブースが並んでいる。亜紀書房と早川書房のブースには、刊行されたばかりのチョン・セランの新刊が積まれている。どれくらい人が来るんだろうと思っていたが、目の当たりにしてびっくりする。とにかく人が多い。ブース話しこんでいる人、飛び交う韓国語、きょろきょろしながら会場を歩く人々…
なるほどこれはお祭りだ。
済東鉄腸さん?
入り口のスペースを抜け、出版社・書店ブースが多数出されているメインの会場に足を踏み入れようとした時、最初に目に飛び込んできたのはその人の姿だった。あまりにも見慣れた姿があたりまえのようにそこにあったので、自分が今見ているのはスマートフォンの画面ではなかろうかと一瞬思ってしまった。
いや、おまえが今見ているのは間違いなく出版クラブビルのイベントスペースであり、そこにいるのは済東鉄腸さんだ。おまえはいま、済東鉄腸さんと同じ時同じ場所にいるのだ。
そう悟った時、こう思った。おまえの新幹線が遅れたのって、この瞬間のためだったのでは?
済東鉄腸さんとは、『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』という、一度聞いたら興味を惹かれずにはいられないタイトルを冠した本を書いた人である。タイトルのとおり、一度も海外に行ったことがないまま日本国内でルーマニア語を学び、ルーマニア語で作品を発表する小説家となったいきさつを書いたこの本は、語学や映画、人への愛にあふれ、生きるエネルギーに満ちた一冊である。刊行されて間もないころ、この本への思いを綴った文章をブログに載せたことがあった。これである。
すると、なんと! 済東鉄腸さんがこの文章を読んでくれたのである。そしてSNSでこの文章に言葉を寄せてくれたのだ。これは今に至るまで、リアルで知らない人と行ったSNS上のコミュニケーションで一番うれしかったやりとりだ。そんなことがあったのでなおさら、その時済東鉄腸さんの姿をK-Bookフェスティバルの会場で見つけてびっくりするとともにうれしかったのである。
サインをもらいたい…。
衝撃から覚めて最初に思ったのがそれだった。しかし残念ながら本は手元にない。売ってもいない。ああああそれでも、何か、何か言いたい。あなたの本は素晴らしいと。あの時、感想を書いた者です…と。
などと思っていたら、どうもその時ブースにいる誰かと話していたのが終わったらしい。思わぬ好機の到来に、あわわわ、となりながら、いつのまにか声をかけていた。
「あの……済東鉄腸さんですよね?」
結果として、会ったこともない人間にいきなり声をかけられたにもかかわらず、済東鉄腸さんは非常にフレンドリーに接してくださった。今日は映画のスペースをするはずが中止になったためK-Bookフェスティバルに来られたのだという。ブログに感想を書いた者であることをお伝えすると、荷物からぼろぼろになった『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』を取り出された。縁のできた人にサインを書いてもらっているとのことで、いろいろな名前でいっぱいのその本に、なんと私もサインを書かせていただいた。会場の外でほんの五分か十分程度だったがお話しすることができて、本当にいい時間を過ごすことができた。ブログにこのことを書いていいでしょうかとお聞きしたら快諾してくださったのでここに記す。あの時は本当にありがとうございました。
というところで、長くなってしまったので「その①」はここまで。この後ももちろんK-Bookフェスティバルは続くのでした。
K-Bookフェスティバルの公式サイトはこちら。今からK-Bookフェスティバル2025が楽しみです。
済東鉄腸さんの新刊『クソッタレな俺をマシにするための生活革命』はこちら。男らしさを考えに考えた記録です。