この伝記の主人公が自らの祖先と名のる家族は、ひじょうに古い家系のひとつであると広く認められている。だから家名そのものの由来もよくわからなくなっているのも、ふしぎではない。(p.7)
という文章を読んで、あなたはこの「主人公」をどういう人物だと思うだろうか。実はここで語られているのは「人物」ではない。主人公フラッシュは「純血の赤色系コッカー種で、その血統のもつすべての秀れた特徴をもち合わせていたことは疑いのないことである(p.17)」。犬の中の貴族ともいうべきやんごとない名家の出であるフラッシュは、あまり裕福でない田舎の家でのびのびと暮らしていたが、やがて主人であるミッドフォード嬢から友人のエリザベス・バレットへと贈られる。
このエリザベス・バレットとは、詩人であり、同じく詩人であるロバート・ブラウニングと結婚したあのエリザベス・バレットである。家族と共に暮らすイギリスでの生活が、彼女にとって息の詰まるものであったらしいことは、フラッシュの身に起こる出来事を通してほのめかされる。フラッシュが誘拐され身代金を要求された時、弟も、父も、ブラウニング氏そのひとさえも、悪党を増長させることになるからと身代金の支払いに反対した。しかしエリザベス・バレットは彼らの言うなりにはならない。
でも、もしも山賊がわたくしを誘拐し、このわたくし(、、、、)を彼らの思うままになし、わたくしの耳を切りとってニュー・クロスへ郵送するぞと脅したなら、あなたはどうなさいましたでしょう? あなたがどうなさったとしても、わたくしの心はきまっております。フラッシュは無力なのです。わたくしにはフラッシュを助ける義務があります。(p.107)
ブラウニング氏にきっぱりとそう言い渡したエリザベスは、なんやかやと勇ましげな言葉を並べ立てるばかりで何の役にも立たない男性たちを尻目に、女中のウイルソンだけをお供に、ついに悪党たちの拠点へ乗り込んでいく。その姿は痛快だ。
このように、フラッシュとエリザベスの間にある深い絆には、時にエリザベスの夫ブラウニング氏さえも立ち入ることができない。一匹と一人がイギリスを離れ、イタリアに居を移した後も、かれらは解放感を共有する。「犬はたくさんいるけれども、階級というものはない(p.127)」ところで「自分は貴族だと思うようにしつけられて(p.128)」いたフラッシュがやがて「どの犬もみんな兄弟だ。この新しい世界では、鎖は必要ない。保護はいらない(p.133)」とのびのびした暮らしを享受するようになると、ブラウニング夫人となったエリザベスもこう思う。
フィレンツェでは、恐怖というものがなかった。ここには犬泥棒はいなかった。それに父親なんてものもいないんだわ(後略)(p.134)。
イギリスでは自分の部屋に閉じこもるようにして暮らしていたエリザベスだが、新天地では服装を変え髪型を変え、好んでバルコニーに出るようになる。
自由気ままに家を出入りしてそこらの雌犬を追いかけるフラッシュと、夫を持ちやがて子どもを産むエリザベスは、決してべったりと常にそばにいるわけではない。かれらはそれぞれの生を苦しんだり楽しんだりしながら、それでもお互いを深く思い続ける。まるで、そう、親友同士のように。
かれらの出会いの場面を振り返ってみよう。
彼らの間には、似通ったところがある。お互いをじっと見つめ合っていると、どちらもこう感じた。「おや、わたしがいる」――それから、めいめいが感じた、「でも、なんてちがっているのだろう!」(p.32)
人間であれ犬であれ、このように感じることのできる友と出会うことができるとは、なんと幸福なことだろう。
※まる六ページにわたってリリー・ウイルソンについて語る原注(p.188~194)が、彼女(および彼女のような立場の女性)が置かれた状況について示唆に富む、興味深いものになっていることを付け加えておきたい。
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電子書籍版はないもよう。