夜になるまえに

本の話をするところ。

彼女が撃たねばならない「敵」とは「同志少女よ、敵を撃て」

 一九四二年、独ソ戦が激化する中、ドイツ兵により住んでいた村の人々と母を殺された少女セラフィマは、赤軍兵士イリーナに救われて狙撃兵となる道を選ぶ。同じ境遇の女性たちと共に厳しい訓練を受けて狙撃の腕を磨き、戦地に赴いた彼女と仲間の狙撃兵たちの運命は。

 本書のあらすじを書き起こせばこうなる。となれば、これはドイツ対ソビエトの戦いを描いた小説であり、ソ連軍の一員として戦う主人公セラフィマの「敵」とは当然、ドイツという国であり、ドイツ軍であり、ドイツ兵たちである。そう考えるのは自然だし、何も間違ってはいない。確かにセラフィマはドイツ軍を相手に戦う。

 しかし、イリーナによる厳しい指導の終わりに、「何のために戦うか」を問われたセラフィマはこう答える。

 

 「私は、女性を守るために戦います」(p.126)

 

 村が襲撃を受けた際、若い女性が兵士に暴行された後に殺されたのを目の当たりにし、自らも暴行される寸前だったセラフィマにとって、その言葉は切実だ。だが、敵であるドイツ軍に虐げられる敵国人であるドイツ人女性の姿を、味方であるソ連軍兵士が女性を虐げる側に回るさまを見聞きして、彼女の信念は試される。女性を守るために戦う。そのために撃たねばならない敵とは一体、誰なのか。

 笑いながら敵を殺し、殺した数を誇り、親しい仲間の死にも涙も出ない。戦いの日々がセラフィマから人間性を奪っていく。それでも彼女は悪魔になるまいとする。敵と、敵から守りたいものを分ける一本の線を引く時、守りたいものの側に――国籍の別なく――虐げられる女性を置く。彼女はそうやって人であろうとする。彼女はそうやって、自分と敵とを隔てる一線を守ろうとする。その線を、彼女は決して自ら越えてはならない。そしてその線を越えたものを、彼女は決して許してはならない。だから、「同志少女よ、敵を撃て」という言葉がここに現れるのだ。その時、彼女の敵は、もはやドイツではない。それは人間を悪魔に変えてしまう何か、銃弾では倒すことのできない何か、それでも撃たねばならない何かなのだ。

 

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