言葉をとても美しく使う人が世界には、いる。言葉をとても美しく使うことができない人が大勢を占めるこの世界に在って、その人々はたとえば詩人と呼ばれる。
ああ、これは詩人が書いたな。
そう、詩ではないものを読んでいて思うことがある(そして、詩であるものを読んでいて思わないこともある)。そういう時、その詩ではないものは、たいてい本当に詩人が書いている。
たとえば「きみはPOP」。この写真と文とで綴られた短編を、小説にするよりそれこそ歌に歌った方が向いているような物語を、断ち切るように終わらせる最後の一言を読んで、ああ、これは詩人が書いたな、と思った。もちろんこの本を書いたのは最果タヒという、恐らく現代日本で最も有名な詩人のひとりである、ということを私は、本を読む前からあらかじめ知っていた。しかしそれを「知っている/知っていない」と、「詩人が書いたな」モーメントは一致しない。詩人が書いた、と知っていても「詩人が書いたな」モーメントがやってこないことも、もちろん、ある。この本では、モーメントは一度ならず訪れた。何度も、何度も、訪れた。たとえば、次のような言葉に出逢った時に。
「ぼくと愛してるさんは、銀行強盗仲間であった」
「空に住所はないのだ」
「これはただの憎しみです」
「生きていけないと言えば、白鳥になるような時代だった」
言葉をとても美しく使う人の言葉は、喉が渇いた時に水をいくらでも飲めるように、いくらでも頭に入れられるように思える。この本はまさにそれだ。ごくりごくりと飲んで、飲んで、あっという間に飲み干してしまって、けれど水はなくなってしまったのではなく、あなたの喉を潤している。この本の言葉は、すらりすらりと頭に入ってきて、「詩人が書いたな」「詩人が書いたな」「詩人が書いたな」と思わせてくれて、そして頭のどこかにひっかき傷を残す。
一ページにも満たない「言語紀」が、説明はできないけれど私はとても好きで、説明はできないけれど好きだというそのことが、つまりは頭にできたひっかき傷であり、美しく使われた言葉であるのだろう、と思った。
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