夜になるまえに

本の話をするところ。

それは「彼」の物語ではなく「ハムネット」

 一五八〇年代のイギリスに暮らすある夫婦には、三人の子どもがいた。しかしある時、下の娘ジュディスがペストに罹ってしまう。母アグネスと双子の兄ハムネットは懸命に彼女を看病するが。

 

 この小説のあらすじを簡単に書くとしよう。すると、上のようになることはあり得る。あるいは、下のようになることも。

 

 薬草に詳しく、人の運命を見ることができる不思議な能力を持つアグネスは、父との関係に問題を抱える青年と結婚し三人の子どもをもうける。しかしある時、そのうちの一人がペストに罹り…

 

 はっきりさせておきたいのは、この物語は決して下のように要約されるべきではないということだ。

 

 世界の名作として名を残す四大悲劇の一つ「ハムレット」。シェイクスピアはいかにしてこの傑作を書き上げたのか。その裏には彼の家族を見舞った悲劇があった。

 

 「ハムネット」というタイトルが半分明かしているようなものだが、作中で「ラテン語教師」などと呼ばれるアグネスの夫で子どもたちの父親である男性は、明らかにかの高名な劇作家である。そして彼は作中で「ハムレット」を書く。しかし、だからといってこの物語を「彼」の物語だと言わないでほしい。「彼」は、あくまでもアグネスの「夫」であり、子どもたちの「父親」である。「彼の妻」という呼び方を改め、彼の方を「彼女の夫」と呼ぶことは、これまでに数々の女性が奪われてきたものを取りかえす試みだ。これは誰かの妻、誰かの娘、誰かの母ではなく、アグネスの物語なのだ。幼くして母を亡くし、継母との息の詰まるような暮らしを結婚によって抜け出して、子どもを亡くし、その死を悼み…すべては彼女の目を通して語られている。彼女はこの物語ではたしかな輪郭を持ち、息をしている「アグネス」として、物語の主人公になるにふさわしい一人の複雑な感情を抱えた人間として描かれる。

 悪妻と呼ばれることの多い「彼女」を新たなまなざしで見つめ、新たないのちを与えたこの物語で、「彼」は一度も、あのあまりにも有名な名で呼ばれることがない。この小説がこのように書かれたことは、まったくもって正しいという他ない。

 

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