夜になるまえに

本の話をするところ。

わたしたちはどちら側にいるのか「生命式」

 

 表題作「生命式」に描かれるのは、たとえば剣と魔法が活躍するファンタジー世界、ではない。それは今わたしたちが住んでいるこの世界、に限りなくよく似ている、ようだ。しかし昼食時に主人公池谷の後輩から「以前職場にいた中尾さんが亡くなった」というニュースがもたらされると、次のようなどきりとする一言が発せられる。それは「今、ここ」によく似てはいるが決定的に違う世界への招待状だ。
「中尾さん、美味しいかなあ」(p.11)
ようこそ、狂った世界へ。
人間である中尾さんが美味しい、とはどういうことなのか。「生命式」の世界では、人口減少により生殖が尊いこととされ、人が死ぬと葬式ならぬ「生命式」を行い、死んだ人間を食べながら男女が受精相手を探す。三十年ほどでできあがったこの新たな常識に、人肉を食べることが禁忌とされていた三十年前を覚えている池谷は馴染むことができない。幼稚園の頃食べたいものをあげていくゲームでなんとなく「人間」と言ってしまい、周りにいたすべての人間から「正しさ」によって糾弾された記憶を持っているからなおさらだ。
しかし、そんな池谷が、ある生命式を経てたどり着くのは、生命式があり、人肉を食べ、受精をする、そんな世界を肯定し、肯定され、受け入れ、受け入れられる境地だ。ラストシーンには、「今、ここ」にいるわたしたちにはとうてい受け入れられない光景が広がり、池谷もまたその一部となる。いつのまに、池谷は「向こう側」に行ってしまったのだろう。池谷はこの小説を読んでいるわたしたちのように「今、ここ」にいたはずだったのに。
次に並んだ「素敵な素材」で、語り手であるナナは婚約者のナオキとの間に不和を抱えている。死んだ人間を素材として活用し、人毛のセーター、骨の指輪、胃袋のシェードランプが当たり前のように作られている世界で、ナオキは「僕には皆が何でこんな残酷なことを平気でしているのか、どうしてもわからないんだ。(中略)普通の動物は仲間の死体をセーターやランプになんかしないんだ」(p.64)と言い、人間を使って作られたものを忌避する。その姿は、「向こう側」に迷い込んでしまった「今、ここ」の人間のようで、共感を覚えずにはいられない。
しかし、ナオキもまた、最後にはこう漏らす。
「わからない……わからなくなってしまったんだ。『残酷』という言葉も、『感動』という言葉も、今朝まで確信があって使っていたのに、今はどうしようもなく、根拠がないんだ」(pp.76-77)
そんなはずはない、と読んでいる人は言いたくなるかもしれない。死んだ人間を材料にして服やアクセサリーを作るなんて、残酷なはずだ。そうに決まっている。それは未来永劫変らない……しかし、「生命式」の池谷が経験した世界の変容では、「そうに決まっている」ものが徐々に覆されていったはずであり、ナオキが経験しているのはまさにその過程ではないだろうか。読み手であるわたしたちのように「今、ここ」にいるように見えたふたりは、思いのほかたやすく、「向こう側」に誘われてしまう。「正しさ」も「禁忌」も「残酷」も、わたしたちが信じているほど確固としたものでも、不変のものでもない。
「今、ここ」にいるわたしたちも、池谷とナオキのように、いつ何時「向こう側」へ行くことになるかしれない。あるいは、誰かにとって、わたしたちは既に「向こう側」の住人なのかもしれない。「今、ここ」と「向こう側」。その境界にあるはずのくっきりとした線の存在、それ自体を疑わせるような小説群である。

 

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