夜になるまえに

本の話をするところ。

私たちに通じることばで「マリはすてきじゃない魔女」

 ことばの通じる人と話すのは、とても楽だ。その人たちと話す時には、何を説明することもない。あたりまえのように、私の使うことばをその人たちは知っている。ことばの通じない人と話す時、会話の大半は、ことばの意味を説明することに費やされてしまうのに。なおかつ、そのことばを、その人たちは私と同じ感情を持って発する。ある時は優しさを、ある時は怒りを込めて、大事にしなければならないことばは、ことさらに慎重に、丁重に。その人たちはたいてい、私の読んできた本や観てきた映画を知っていて、新たに読むべき本観るべき映画を教えてくれる。そういう人たちと話す時、帰ってきたような気持ちに、私はなる。帰ってきた。たとえ相手がはじめて話す人だろうと、そう思うのだ。
 この本を読んで、帰ってきたような気持ちになるであろう人たちがいる。
 その人たちは、この本の中で忌みきらわれていた魔女が、人間に歩み寄るために「すてき」になろうとした気持ちが、わかる。一部の魔女たちが、「すてき」にならなければ受け入れられないなんておかしいと反発した気持ちが、わかる。魔女たちが怖い存在だとされてきたように、その人たちを、世界は恐ろしいものとして扱ってきた。だからわかるのだ。そしてその人たちは、この物語に、あたりまえにそこにいる存在として、登場する。
 主人公マリは、おいしいものが大好きで、友だちと家族に囲まれて毎日を楽しく生きる魔女だ。魔法は、人間の役に立つためというより、自分のやりたいことのために使ってしまう。人間たちのための「すてき」な魔女でいることには興味がないのだ。マリがそのような魔女であることはなんとも痛快である。できれば子どもであるうちに、マリの物語を読みたかった。同じ思いの大人たちがきっと大勢いるはずで、私たちは私たちのことばの通じる物語を、いつだって、いくらだって、読みたがっているのだ。