夜になるまえに

本の話をするところ。

考えることをやめないこと「言葉の展望台」

 コミュニケーションとは、何だろうか。
 本書のプロローグで、著者はコミュニケーションをこう定義する。
 「誰かが何かをしたり、言ったりすることで何かを意味し、別の誰かがそれを理解したときに成立するもの、それを「コミュニケーション」と呼ぼう」(pp.14-15)
 シンプルな定義だ。しかし、コミュニケーションにまつわるあれこれは決してシンプルではない。それを見つめるのが言語やコミュニケーションをテーマに研究している哲学者であればなおさらである。そのまなざしの下では、それはシンプルな形ではいられない。
 政治家の発言、ゲームのキャラクターの台詞、メディアによる用語の選択……それは日常に登場するコミュニケーションの種だ。中にはなんとはなしに通り過ぎてしまうような言葉もある。けれど著者は、他の人ならば突き詰めて考えることなくあいまいな理解で受け止めて終わってしまいそうな場面で、ふとした疑問を抱き、それを哲学者のレンズで覗いてみる。「当店のトイレをきれいにご利用いただきありがとうございます」というトイレの張り紙、私たちが日常的に目にしていながら多くの人が深く考えることはなかったそれについての思考が、言語行為の調整(アコモデーション)――「条件を満たさない言語行為があけっぴろげになされたとき、その言語行為は不適切なものとして終わるのではなく、むしろその言語行為を適切なものとすべく条件を事後的に満たすことが目指される」(p.49)場合がある――という考え方を経由して、マンスプレイニングの害に至る過程はスリリングだ。著者も「コミュニケーションというものを研究するにあたって、私の基本的な関心は「それがどんな素敵なものをもたらすのか」だった」(p.10)とプロローグで語っている(しかしその後「少しばかり能天気だった」と言っている)とおり、「コミュニケーション」という言葉にはポジティブな印象があるかもしれない。しかし、マンスプレイニングの害についての文章が示すように、コミュニケーションにはポジティブとは言えないものも含まれている。「言葉による支配も、侮蔑も、否定も、コミュニケーションのなかで起きる」(p.10)のだ。
 著者は分析哲学の支配的な見方である「何かを意味するとは、要するに相手にその何かを信じさせようという意図のもとで何かをしたり、言ったりすることだ」(p.15)――つまり、「自分が何を意味しているかを決めるのは自分自身だ」(p.16)という考え方に賛同しない。「魯肉飯のさえずり」を引用して著者が示すのは、コミュニケーションの外側の力関係によって、あるコミュニケーションにおける言葉の意味が力を持つ人物に独占される「意味の占有」があり、「コミュニケーション的暴力」が立ち現れるさまだ。
別の所で、著者はこう述べる。「現実にはもともとの意図を諦め、他人が決めた意味を飲み込むしかないことさえあるのに、なぜ話し手の意図が意味を決めるのだと信じられてきたのだろう? 邪推だけれど、ひょっとしたらそれは、自身の発話の意味を他人によって占有される経験が少ない人々ばかりが言語哲学を担ってきたからかもしれない、とも思ってしまう」(p.72)。
 トランスジェンダーの当事者であり、かつて「おれ」という一人称を押しつけられ、その後は「できるだけ一人称代名詞そのものを使わないという道を選ぶようになった」(p.101)という経験をした著者は、「自身の発話の意味を他人によって占有される経験が少ない人々」には明らかにあてはまらない。そんな彼女の目は、コミュニケーションの素晴らしさだけではなく暴力的な側面にも向けられ、更には今まで学問を、哲学を、言葉を形作ってきた人々の多くがそもそも疑いさえしなかったように思われる「自分が何を意味しているかを決めるのは自分自身だ」という考え方に疑いのまなざしを向ける。そこに生まれるのは何だろうか。
 疑うこと、それは力である。「自分が何を意味しているかを決めるのは自分自身だ」と信じ込む人々の築いてきたロジックを崩すことができるとしたら、それは「自分が何を意味しているかを決めるのは自分自身だ」を疑う者によってだろう。コミュニケーションの基本を成すと考えられてきたその考え方に疑いのまなざしを向けることは、つまり言葉を奪われてしまうことが不当にも多かった人々の側からコミュニケーションをまなざす試みだ。この疑いは、それまでなかったことにされてきたいろいろな問題を可視化し、新たな考え方を生む。
本書が提示するのはコミュニケーションの素晴らしさであり、複雑さであり、危険性であり、暴力だ。そして、一見当然に思われること――「自分が何を意味しているかを決めるのは自分自身だ」――を疑うことによって見えてくる、意味を奪い奪われることのない、対等なコミュニケーションの可能性だ。時にはっきりとした答えを出すことのできない問いを自らに問いかけながら、著者は考えることをやめない。それはきっと、SNSが発達し新たな形のコミュニケーションが氾濫するこの時代に、暴力的なコミュニケーションに陥らないために私たちのできる唯一のことでもある。言葉の力について考え、考えることをやめないこと。
考えながら前に進む著者の隣りや、一歩後ろで、一緒に歩きたくなる、そんな一冊である。

 

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著者のもう一冊の話題作「会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション」を使って「マトリックス」を観てみました。こちらもよろしければ。

arimbaud.hatenablog.com