夜になるまえに

本の話をするところ。

私たちを世界へ連れて行くもの「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」

 告白しよう。著者をずいぶん前から知っていた。いや、実生活で会ったことがある、話したことがある、そういう意味ではない。あくまで一方的に知っていた。「Twitterで時折流れてくる、熱量のこもった未公開映画ツイートの主」として。ルーマニア語で小説を発表していることも、ツイートから知った。だから自然にこう思っていた。「この人はルーマニアに住んでいるのだな。だから日本未公開作品も見られるのだろう」。真実を知ったのはこの本が出版されるというニュースを聞いた時だ。「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」。……なんですって? えっ、この人ルーマニアに住んでるんじゃないの? えっ、千葉からほとんど出ないの? えっ、一度も海外に行ったことがないの? えっ……え? 
 思えば、知らず知らずのうちに、私は偏見にまみれていたのだ。「日本語話者である著者がルーマニア語で作品を発表している、ということは何か事情があってルーマニアで暮らしているのだろう」。この考え方は一見自然ではある。しかし、顧みるに、「ルーマニア語なんてマイナーな言語を日本に居ながらにして小説を書けるぐらいのレベルまで勉強する人なんているわけがない」という先入観が、確かに私の中には在ったのだ。「ルーマニアに暮らしているから、日本未公開映画も見られるのだろう」もそう。それは裏を返せば、「海外に暮らしているのでもなければ、こんなよく知らない国々のマイナーな映画を観る人なんていないだろう」になりかねない。ルーマニア語がマイナーな言語であり日本で学ぶのが難しいのはなぜなのか、よく知らない国々のマイナーな映画の数々がなぜ日本で公開されないままなのか、そういった部分が、私には見えていなかったのである。
 著者はそういう部分を見ている人だ。ルーマニア語という言語がマイナーであることの悲しみを、ルーマニア語で物を書く日本人としての悲哀を、更にはノンバイナリーの人々の苦難を、著者は書く。ある時はマイノリティとして、ある時はマジョリティとして。その視点が柔軟に移動するのは、著者が世界中のあちこちで作られてきた、けれども日本には紹介されることのない、未公開映画の数々をすくいあげてきたことと、きっと無関係ではない。その姿勢の根底にあるもの、それは遠い異国の地の文化に対するリスペクトだ。本書にはいろいろな形で著者が交流してきた人々が描かれるが、そこに見られるのも自分とは明らかに違う他者に対するリスペクトである。このリスペクトこそが、著者と世界とを繋いできたのだ。
 オンライン上のやりとりがあまりにも容易になり、他者に対するリスペクトに欠けた言葉を、行為を、目にすることも日常茶飯事になった時代であるからこそ、いや、未来はこちらにあるのだと言いたい。自分と違うものを排除するのではなく理解しようとするまなざしこそが、私たちを世界へ連れて行くのだと。

 

 

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