夜になるまえに

本の話をするところ。

問い続け、考え続けるために「水中の哲学者たち」

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 これは寝る前に読みたい本だな、と思った。どんな本を「寝る前に読みたい本」だと思うのか、と訊かれても説明するのは難しいのだが、たぶん少しずつ少しずつ、何日もかけて読める、あるいは読みたい本、であったり、文章に静かさや柔らかさがあって、これから訪れるはずの眠りを妨げない本、であったりが、そのリストの中にはいる。

 これはそういう本だ。それだのに、あっという間に読み終わってしまった。さみしい。

 著者は哲学対話のファシリテーターをしていて、そこでは様々な哲学的テーマについて人々が考え、言葉を交わす。この本からうかがい知ることのできるそのありかたを、いいなあ、と思う。子どもの頃から雑談というものが苦手だ。世界はいろいろなことで溢れているのにその中から一体何を話せばいいのかがわからない。だから自分がまあまあ話せることで、もしかしたら話している相手に刺さるかもしれないと思って本の話や映画の話をする。相手も本や映画が好きならいいのだが、好きは好きでも相手の好きなのがまったくこちらの知らないジャンルの本や映画だったりするとやっぱり困ってしまう。本や映画にまったく興味のない人だと更に困ってしまう。そういうわけで結局黙っている、ということの多い人生であった、と振り返って思う。

 哲学対話はその点、いい。決まったテーマについていろいろな人が話す、というのが、いい。「何を考えればいいのか」が決められている思考。「何を話せばいいのか」が決められている発話。きっと気持ちがいいだろうな、と思う。たぶん人間から命令を下されるのを待つロボットのように、思う。

 しかし、そうではないのだな、とこの本を読み進めて悟りが訪れた。決まったテーマについて考える/話すことは、なるほど気持ちがいいだろう。しかし哲学対話は対話であるのだから、それは「考えるそして話す」ことに終わらない。「考えるそして話す更に聞く」なのだ。自分のそれとはまるで違う、あるいは奇妙に似通っている、または反対を向いていながら少しだけ重なり合う――そんな他者の考えを「聞く」ことはすなわち、答えを与えられることではなく、むしろ新たな「問い」を投げかけられることだ。「あらかじめ決められたテーマに思考が限定されることが気持ちいい」どころか、「わけのわからない世界のかけらである他者の一部を見せつけられてまたわけがわからなくなってしまう」のである。しかし、「唯一絶対の正しい答え」を与えられることもなければ、「何かが正しい答えであると判定できる誰か」もいないこの世界において、たぶんそれはとても大事なことだ。決して理解できない他者の考えを叩き潰すのでなく、否定するのでなく、受け止める(受け入れる、ではない)、そしてそれをきっかけとして生まれた問いについて考えること――それは、決して人間というものと縁を切ることができないこの世界で生き続けるための手段ではないだろうか。自ら問いかけること、そして他者の問いかけをきっかけに考えること。きっと考え続けるために、人は、ひとりであってはならない。

 

 

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