嫌、なのだ。イヤ、でも、いや、でもない。漢字で書くべきだ。嫌。「わたしたちが火の中で失くしたもの」を読んで真っ先に思い浮かぶ言葉である。
何が嫌なのか。たとえば「パブリートは小さな釘を打った」。ラストが嫌である。たとえばホラー映画のラスト、危機は去った、めでたしめでたしというところで、死んだと思っていた殺人鬼が思わぬところからぐばあっと襲ってくる!というような、ひゃあっと飛び上がって悲鳴を上げる感じの嫌さではない。これが映画だったなら、一緒に観ていた人とゆるゆると顔を見合わせ、「……あのさ」「うん」「あれさ、最後のあれさ、あれってあの、これから」「考えるのやめとこ、な?」「……うん」となるような感じ。そして「ぐばあっ」を何日も経ってから思い出してひゃあっとなることはなくても、この「嫌な感じ」は後を引くものなのである。この本はそういう話ぞろいなのだ。
「蜘蛛の巣」の「あーこいつウザイわ」となる人へのイライラが高まった後に起こる不可解な出来事。「黒い水の下」ラスト10ページの悪夢のような地獄のようなこの世ならぬ場所に足を踏み入れてしまったかのような絶望感。どれもこれも「ぐばあっ」ではない。「ぎゃあああ」ではない。派手さはない。静かに静かに不気味なことどもを書き連ねていった果てにある「嫌」。今夜のトイレやベッドやもしかしたら夢の中にまでついてくる「嫌」。「この殺人鬼は過去にこれこれこういうことがあったからいちゃつく若者たちを惨殺するのです」というようなはっきりした「解」が最後まで示されないがゆえの「嫌」。斧ですぱっと首を飛ばされるのではなく、ピアノ線できりきりと手足を切断されるような「嫌」。「ホラー」ではなく「怪談」という言葉の方がしっくりくる。
「隣の中庭」の最後の一行もそう。う、うん、そうね、そうですよね、そのとおりですね、……嫌ああああああ。
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