夜になるまえに

本の話をするところ。

私が待っていたことば「馬たちよ、それでも光は無垢で」

 書評とは、なんだろうか。

しょ‐ひょう【書評】‥ヒヤウ
書物の内容を批評・紹介すること。また、その文章。「新刊書を―する」「―欄」

 と、広辞苑にある。

 では、と今度は「批評」を引いてみる。

ひ‐ひょう【批評】
物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずること。北村透谷、心池蓮「―といふ事が人間進歩の一要素ならざるべからざるものなりとせば」。「作品を―する」「文芸―」

 書物の内容を紹介する、またはその出来不出来を評価し論ずる。それが書評であるならば、普段このブログで書いている文章は、少なくとも本の紹介ではあるだろうから書評と呼べるかもしれないが、今回のこの文章は違う。
 これは地震についての文章だ。私が体験しなかったあの地震についての。
 あの地震が発生した時、私はそこにいなかった。ゆえに、私は被災者ではない。絶対に、ない。
 しかし私が子ども時代を過ごし、二十年近く暮らした地域を、あの地震は襲った。ほとんど知らない人であったが、ごく薄く遠いつながりのあった人の訃報が舞い込んできたりもした。同じ地域に暮らしていた人ならば、似たようなことがあった人も少なくないのではないかと思う。
 ろくに知りもしなかったその人の顔がよみがえってくることがあったし、人前でいきなり泣き出してしまったことがあった。
私はその地震を体験しなかった。しかし地震は発生したし、私のふるさとを襲った。本来ならば私もあそこにいて、揺れを感じたはずではなかったか、恐怖を覚えたはずではなかったか、そうすべきだったのではないか、という、まったく不条理な思いが頭のどこかに巣くっていた。
あの地震について書かれたものを読んだ。悲しい話があった。いなくなってしまった人たちの話。故郷を失ってしまった人たちの話。差別の話。
あの地震について何度か文章にしてみようとした。うまくできなかった。
あの地震について書かれた創作物が受け入れられなくて憤ったこともあった。泣きながら読んだ。
そしてこの本がそこにあった。
この本の中で、私はそのことばに出逢った。

行け。お前が被曝しろ。(P.27)

これは著者が聞く声だ。著者を突き動かして被災地に向かわせた声だ。私宛のことばではない。しかしそれでも、それは私が待っていたことばだった。たぶん私が自分自身に向けて言ってやりたかったことばだった。
行け。お前が被曝しろ。
刃にもなりかねないような鋭いそのことばは、どういうわけか私を救った。恐らくはあの時に揺れに見舞われることも恐怖を覚えることもなかった自分自身を十分に痛めつけるために、十分に痛めつけて安らかな気持ちになるために、私にはこのことばが必要だった。
行け。お前が被曝しろ。
手元にある単行本の帯には「私は福島県中通りに生まれた」とある。私は福島県中通りで育った。

 

紙の本はこちら↓

honto.jp

 

電子書籍版はなし。

※文庫版も品切れ状態のようである。