この本の表紙には当然ながら、「これはペンです」というタイトルが記されている。そしてその横には、そのタイトルの英訳、「This Is A Pen」も。This is a pen。この、奇妙な文を口にする/書く理由について考えてみる。何かの例文として。あるいはその奇妙さを指摘するため。そもそもなぜこの文が奇妙なのかといえば、もしも「これはペンです」という文が、まず思いつくように「これは何ですか」という問いへの回答であるとするならば、そもそも「これは何ですか」という問いをせねばならない状況が奇妙に思われるからだ。普遍的ないくつかの特徴ある形状をしている「ペン」が「ペン」であると認識することは、通常、たやすい。質問者はつまり、その「ペン」が「ペン」であると認識できない状況にある。たとえば視覚情報が得られない状況で「何か」が手に触れ、近くにいる人に「これは何ですか」と訊ねる、というような状況は考えられるかもしれない。もう一つ考えられるのは、「これ」が「ペン」とはとても思われないような形状をしている場合である。たとえばナナフシの、たとえばりんごの形をしているがどうも見たままの何かではないらしい「これ」が何であるのかを測りかねて、質問者は「これは何ですか」と訊いているのかもしれない。
小説「これはペンです」で「ペン」つまり言葉を綴るツールとして用いられるものは実に多様だ。それは磁石でありタイプボールである。とても「ペン」には見えないそれらは、文章を記すという意味では立派に「ペン」である。しかし「ペン」があり文章が綴られているのならその「ペン」で文章を綴っている者がいるはずだが、この小説はそこに、疑問を呈しようもないように思われるその部分に、疑問を呈してみせる。
叔父の手紙は肉筆だ。神経質そうに尖った文字が、右肩下がりに横書きされる。それはようやく、自分の体のもたらす規則へ不承不承従いはじめた幼い子供の字に似ている。
そう感じるのはわたしであり、叔父はただ、Aのキーを淡々と押し続けているだけであるかもしれない。瞬間ごとに切り替わり続けるように見えるわたしたちの関係は、ただAだけが並ぶ単調な文章を、わたしという読み出し機械が勝手に読み出し、まるで意味に溢れる人間がそこにいるように受け取っている結果だということだって大いにありうる。(pp.27-28)
羅列されたAに意味を見出して存在しない人格を作り出す――それは「ペン」はあり文章はありそれを読む者はいるが書き手はいないという異常な事態である。読む行為が書く行為にもなると言い換えることもできるだろう。はたしてそんなことは可能だろうか。
「これはペンです」は、例えばこのような疑問を取り上げる。あまりにも真摯に「書く」という行為について考えた結果こうなった、というように。この小説はそれに留まらず、百ページ少しの長さの中で、「書く」ことについて様々な思考を展開する。そして冒頭には、恐らくはすべての鍵になる一文が置かれているのだ。
叔父は文字だ。文字通り。(P9)
読めば脳の普段は使われていない部分が機能しているを感じるような、迷宮めいた小説である。
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