時に人と人との関係は暴力的なものになる――こう書くと、恐らくはたいていの人が「それはそうだろう」と思うのではないだろうか。しかし、そこにいくつかの要素を足してみよう。親にたたかれた――それは子どもであるあなたが悪いことをしたから躾をしているのではないだろうか。配偶者に友人と会うのを禁じられた――配偶者は友人よりも優先されてしかるべきではないだろうか。このように親密な関係であればこそ、暴力として受け取られない暴力は多い。本書の著者カルメン・マリア・マチャドが経験した恋人との関係には、更に彼女がクィアであるという要素が絡んできて、事態をより複雑にする。
自分を虐待したパートナーの女性を殺した黒人女性デブラ・リードについての文章がその複雑さを表している。
言うまでもなく弁護士たちは、人々の理解を得るためには、デブラをこれまでのドメスティック・アビューズの物語に当てはめる必要があると思い込んでいた。被虐待者は「女性的な」人物――おとなしくて、ストレートで白人――であり、虐待者は男性的であると。(p.191)
しかし、実態は違う。「女性が女性を虐待することもあるし、これまでも女性は女性を虐待してきた(、、、、)(p.270)」マチャドはそう語る。「クィアがこの問題を真剣に取り上げる必要があったのは、誰もそうしようとしなかったからだ(p.270)」と。
本書でマチャドによって語られる物語は、恋人関係にある二人の人間の関係に起こる、残念ながらありふれた暴力の物語として典型的なものだ。マチャドのガールフレンド――「ドリームハウスの女性」――はマチャドに頻繁に電話し、彼女が答えないと怒り狂う。自分がやりたいと言い出したことがうまくいかないとそれをマチャドのせいにして機嫌を悪くする。よく知らない場所に彼女を置き去りにする。暴力的な関係に絡めとられているマチャドの精神状態は、次のような箇所にぞくりとするような正確さで表されている。
あなたの話は明快だ。自分ではそう思っている。考えていることを口に出し、しかもじっくりと考えてからそうする。でも、あなたが言ったことを彼女が繰り返すと、まったく意味がわからない。本当にそう言ったの? あなたはそう言ったり、考えたりしたことすら思い出せない。でも彼女はそう言われたとあなたにわからせようとしているし、あなたも間違いなくそのつもりで言ったのだ。(p.123)
ふたりの関係には幸せな時もある。彼女が「愛してる」と言ってマチャドに謝ることもある。暴力的で自分を傷つける関係を断つのは、だからこそ難しい。
ロトの妻のように、あなたは振り返り、ロトの妻のように、塩の柱に姿を変えられる。でもロトの妻とは違って、神様はあなたにもう一度チャンスを与え、人間に戻してくれる。するとあなたはまた振り返って、塩になって、不憫に思った神様が三度目のチャンスを与えると、あなたはまた同じことを繰り返して、何度も何度も、一時的救済と間違いを行ったり来たりする。(p.264)
遠い昔から何人もの恋人たちがくり返してきたこの典型的な暴力の物語を、マチャドが今一度語ることには、大きな意味がある。もちろん彼女のプライベートな過去の昇華として。そして同性間の恋愛関係における虐待の記録として。「ある種の人たちは悪いことをしない、という可能性の否定は、その人たちの人間性までもを否定してしまう(p.71)」のだから。
※第二章のエピグラフはパトリシア・ハイスミス「塩の対価」から取られているが、このタイトル(The Price of Salt)は引用部分でマチャドが自分をなぞらえている聖書のロトの妻のエピソードから来ているという。ちなみにこの小説はクレア・モーガンの名前で出版された後、「キャロル」とタイトルを変えハイスミス名義で再度出版された。
※訳者あとがきは本作の受容のされ方やマチャドが本作について語ったことに触れておりとても読みごたえのあるものだったが、「クィアの表象でもある本作は、これまでのシスジェンダー中心の文学に対する挑戦でもある」という一文には困惑した。あとがきでマチャドは「私はシスジェンダーのクィアの女性」であると語っている。
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電子書籍版はないもよう。