国の名前を聞くと、思い出す作家がいる。
たとえば、オランダなら「ウールフ、黒い湖」のハーセだ。スペインならフリオ・リャマサーレス、ポーランドならヴィトルド・ゴンブローヴィッチ。翻訳されている作品の少ない国ほど、一人の作家のイメージと結びついていることが多い。いっとう好きな作家がいると、必ず最初にその作家の名前が出てくる、ということもある。
イタリアなら、アレッサンドロ・バリッコなのである。
ロダーリとか、モラヴィアとか、エーコとか、カルヴィーノとか、いくつも名前を挙げられるイタリア文学界だが、まず出てくるのは、私の場合、バリッコなのだ。
映画化された「海の上のピアニスト」が有名なバリッコだが、一冊選ぶとしたら「絹」にする。
エルヴェ・ジョンクール、三十二歳。
蚕を買い、
蚕を売った。(P.8)
十九世紀を舞台に、絹を生む蚕を求めてヨーロッパから日本へと旅をする商人エルヴェは、謎めいた権力者の男のもとで、ある女性と出会う。名前さえ知らない彼女とエルヴェの間で交わされるのは言葉でさえない。ただ視線ばかりだ。しかしそこには、一人の男に海さえ越えさせる何かが確かにあった。
というあらすじからは伝わらないのは、この小説の静けさだ。この小説は始めから終わりまでずっと静かである。静かでありながら、音楽に似ている。上に引用した部分のように、時おりはさまれる改行が独特のリズムを生む。本文はわずか一六〇ページだが、六十五の短い章から成り、その一つ一つが一篇の詩のようだ。リフレインのようにくりかえされる言葉があり、章の区切りは休符のようで、それらは一つの曲を奏でるためにここぞというところに置かれていて、見事に役目を果たしている。どこにもたるむ気配を見せず、それこそぴんと張られた一本の絹糸のように最初から最後まで美しい、奇跡のような小説である。
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お気に入りの白水Uブックスを語った過去記事はこちら。「絹」ももちろん入ってます。