ガブリエル・ガルシア=マルケスの言わずと知れた名高い短編「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」を読んだ時、私にはわからないことがあった。
エレンディラはどうして自分で祖母を殺さないのだろうか?
「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」のあらすじはこうだ。エレンディラは私生児の自分を母親代わりに育てた祖母にさんざんこき使われている。ある日、疲れ果てて眠ってしまったエレンディラが自室に放置した燭台が風によって倒れ、屋敷が焼け落ちてしまう。その償いのため、祖母はエレンディラを連れまわし、行く先々で男たちに身体を売らせる。エレンディラは客としてやって来た美しい若者ウリセスと心を通わせ、やがて彼に祖母を殺すようそそのかす。
厳密に言えば、ウリセスをそそのかす前に、エレンディラは一度、自分で祖母を殺そうとしている。いつものように風呂の世話をしている時、煮えたぎるような熱湯を祖母の浸かっている湯船に注ぎこもうとするのである。しかし祖母に名前を呼ばれるだけで、彼女は怯え、思いとどまってしまう。更にウリセスをそそのかす時にも、自分の祖母なのだから殺せないと言っている。
「エレンディラはどうして自分で祖母を殺さないのだろうか」に対する回答としては、もしかしたらそれで十分なのかもしれない。肉親だから。幼い頃からずっと一緒に暮らしてきた身近な人だから。長年従順であることを強いられていて、逆らう勇気がないから。しかしなぜか私には納得がいかなかった。どうにも言語化できないもやつきが後に残った。
謎が解けたのは、だいぶ後になってからだった。「謎」というのは、「エレンディラはどうして自分で祖母を殺さないのだろうか」というよりは、「なぜ私はエレンディラが祖母を自分で殺さないことに納得がいかないのか」である。思いがけない時に、それは解けた。「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を観たのである。
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」は法も秩序も崩壊した近未来が舞台のマッドマックスシリーズ第四作で、世界中でヒットし、評価も高い映画だ。
「怒りのデス・ロード」はこんな話だ。砂漠の中に、水の分配を支配するイモータン・ジョーを頂点とした独裁社会がある。ジョーの配下である大隊長フュリオサは、ある時、ジョーの子を産むために幽閉されていた女たちを連れて逃亡する。
そこに主人公マックスが颯爽と現れ、女たちのために戦う…という話では、これは、決してない。マックスはジョーの配下に捕らわれて、成り行き上一行に同行し、戦いに手を貸すことになる。けれどマックスは彼女たちのかわりに戦うのではない。あくまで戦うのはフュリオサだ。この物語の主人公はフュリオサなのだ。
フュリオサはかつて緑あふれる地から母親ともどもジョーのもとに連れてこられ、すぐに母親を亡くし、その後片腕を失くしながらもジョーの信頼を勝ち得て大隊長の地位を得る。その間もずっと逃亡の機会をうかがっていた。故郷を奪い母を奪ったジョーも、彼女の抵抗の意志を奪うことはできなかった。
フュリオサがこの映画でやっていることは、つまりエレンディラができなかったことである。自分を支配しようとする者と自ら戦うこと。自分の運命を自ら変えようとすること。
私がウリセスに祖母を殺させようとするエレンディラに納得できなかったのは、つまり彼女が自分の運命を他者の手に委ねてしまっていたからだ。エレンディラは祖母と戦わない。当然ながら、祖母に勝利することもない。彼女のために戦ってくれる誰か――この場合はウリセス――がいてくれなければ、彼女の運命は変わらず、彼女が自由になることはない。たとえ物語中でエレンディラが実際に自由になったとしても、身も蓋もない言い方をすれば、それはたまたまうまくいっただけであって、自ら戦えば運命を変えられるという希望はそこにはない。逆に言えば、たまたまうまくいかなければ彼女はずっと囚われの身であるという、何の希望もないメッセージがそこにある。
それと比較して「怒りのデス・ロード」が示しているのは何か。思うにそれは、「戦えば勝利できる」でも「戦わなければ勝利できない」でもない。それはきっと、「私たちは自分のために戦うことができる」だ。自分は自分のために戦うことなどできないと、そんな力など自分にはないと、あらかじめそう信じさせられてきたエレンディラのような少女たちに、この映画はそう語りかけている。
この文章はZINE「少女宣言」に収録されているものです。
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